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優しさに満ちた策略

 

 

 

 

 

 

 

なんとか白石の猛アプローチを切り抜けた千歳は、中庭へと来ていた。
その右手は黒く汚れ、普段穏やかに微笑んでいる瞳は若干顰められていた。


やはり、光があるのと無いのとでは全く違う。


片目とはいえ完全に失われた視界は狭く、今まで以上に遠近感が掴めない。
それどころか、残された左目まで色が褪せてきているのだ。

自然を見つめて、空を見上げて、木々の息吹を感じる事を何よりも好む千歳にとって、これは想像以上にストレスが蓄積された。

何を見ても黒く翳っている。
晴天のはずの空はどんよりと靄が掛かっているようだ。
ぶつからないように壁伝いに歩けば右手は傷だらけ。

流石の千歳も、その心は徐々に疲弊していく。


「テニスどころじゃ無かね・・・」


搾り出された苦言は、風に消えて・・・

行くはずだった。


「何がでしょ?」

「!?」


不意に返された返答。
全く予想していなかったそれに千歳は心底驚き、目を見開いて声のした方を見た。


「・・・財前っ」

「どないしました?」


普段、異常なまでに冷静沈着な千歳が、目を見開いて自分を見つめている。
それがあまりにも見慣れなくて、財前は訝しげに眉を潜めた。


「・・・ん、誰もおらんち思っとったと」

「そら失礼しましたわ」


まだ驚きを隠せないまま言う千歳に、財前は無表情で抑揚もなく答える。
その心理は掴めないまま、千歳は続けた。


「財前もサボリとや?」

「まぁ、そんなとこっすわ。・・・で、何でしょ」

「ん?」

「さっきの質問の答え、聞いとりませんけど」

「・・・」


やはりそう簡単にはかわせない。
千歳は曖昧に微笑んで頭を掻いた。


「ん・・・なんも無かよ」

「そうっすか」


言えば予想外にもあっさりと引き下がる財前。
ふいっと興味が無くなったかのように逸らされた瞳は、やはり感情を読む事は出来ない。

千歳は内心困り果てて、どうしたものかと思い悩んだ。
しばらく無言でいると、やがて口を開いたのは財前。


「・・・千歳先輩」

「ん?なんね」


首を傾げて問い返すと、財前は再び真っ直ぐ自分を見上げてきた。
ほんの一瞬視線が逸らされ、どうしたのかと口を開こうとした瞬間。
発せられたのは、たった一つの質問。


「今日ピアス替えてきたんすわ。これ、どない思います?」


千歳は全ての言葉を飲み込んだ。
僅かに目を見開き、無意識に息を詰まらせる。
だがそんな動揺を知ってか知らずか、財前の視線は一切動く事は無く。
静かに、見守るように、千歳の瞳を射抜いていた。


「・・・どげんして、俺に聞くとや?」

「先輩もピアスしてますやん。参考程度に聞いとるだけっすわ」


どうしたらいいのか。
一貫して無表情の財前からは、一切の情報も手に入れる事が出来ない。
躊躇うように視線を財前の耳へと移す。
そこには両耳合わせて五個のリングがはめられていた。

しかし。

なんとなく色が違うのは分かる。
分かるがしかし、一部の色がどうしても判別する事が出来ない。
全てが灰色がかっている世界で、こんなにも小さな色を見分ける事はあまりにも困難だった。


「良か・・・色たいね」

「特に、どれが?」

「・・・」


ここまでされれば、流石の千歳もいい加減に気付く。

あぁ、もう、これ以上は。

そこまで思い至ると、千歳は深く息を吐いて苦笑を浮かべた。
開いた口からは、諦めたような、自嘲じみた言葉。


「・・・灰色」

「・・・っ」


それまで総じて無表情だった財前の顔が、僅かに悲痛の色を浮かべる。
やはり気付いていたのだろう。
千歳は静かに目を逸らして、中庭の草原の上に腰を下ろした。


「どげんして分かったと?」

「・・・」


押し黙る財前は、何かを躊躇っているようで。
促すように立ち尽くす財前に目をやれば、強張った口が僅かに開いた。


「・・・別に、勘っすわ。・・・ただ」

「ん?」

「・・・ただ、目・・・おかしなってはるんかなとは、思っとりました」


なるほど。
確かに財前はピアスの話を振ってきたとき、特に色について聞いている訳ではなかった。

ただ、これはどうか、と聞いてきただけ。

視力が落ちていたなら、その数も形状も答える事は出来なかったろう。
同時に今の自分のように光を失いかけているのなら、その色を判別する事は出来ない。


さすがは天才。
自分が零した、あのたった一言だけでここまでの策を練られるとは。
まさに完敗だった。

千歳が自分の隣に座るように誘うと、無言のまま静かに座ってくれる。
僅かに微笑みを漏らして、千歳は口を開いた。


「誰にも知られとうなかったばってん、しょんなかね」

「・・・なんでっすか」


本当に僅かしか紡がれない言葉。
しかし千歳には、なんとなく分かる。
彼の言いたい事が、ほんの少しだけ。


「・・・知ってそげん顔されんのは、つらかよ」
 
「・・・っ」


弾かれたように顔を向ければ、そこには優しく、寂しそうに笑う愛しい人。
心臓を鷲掴みされたような気分に陥った財前は、どうしたらいいか分からず再びその顔を俯かせた。


「・・・今、どないな風に見えとんのですか」

「ん・・・ちゃんと見えとると。ただ・・・色が、おかしかね」


躊躇うように伝えられた言葉は、色々な部分が曖昧にぼやけていて。
財前は若干迷いながらも、思った事を口にした。


「右目が・・・っすか?」

「・・・」


あぁ。
今更ながらに思う。
この人は本当に、どこまで。

どこまで、優しいんだろう。

こんな時にまで、俺を気遣ってくれる。
傷つけないように、されど、嘘はつかないように。
その優しさを俺がことごとく潰してしまっているのかと思うと、自己嫌悪を感じてならない。


「・・・。・・・右目は・・・」

「・・・っ」


迷いながら発せられた声は、僅かに震えていて。
自分を見ていたはずの眼は、いつの間にか俯いていて。

財前は堪らなくなって、真横に座る千歳の身体を、頭から覆うように抱き締めた。


「・・・っ財前・・・!?」

「・・・すんません。もう、いいっすわ」


抱く腕に更に力を込めて言う。
そんな自分の声も震えていて、しかし止める事は出来なかった。


「先輩が嫌がるんなら、誰にも言いませんし。言いたくないんなら、もうなんも言わんでいいです」

「・・・財前」

「ただ、これだけは覚えといて貰えませんか」

「ん・・・?」

「・・・俺はもう、知っとります」

「・・・っ」


自分の腕の中で、小さく息を飲み込む音。
財前は優しく、強く抱き締めて続ける。


「知っとりますから・・・もう無理せんといて下さい」


心からの、思いを込めて。

もう、一人で抱え込むのはやめて。

どうか。
俺の痛む顔がつらいと言った貴方なら分かるはず。
たった一人で苦しみ続ける貴方を見ている事も、とてもつらい事なんだと。


「うちの部のめんどくさいとこは、皆が揃いも揃ってアホみたいに世話焼きで馴れ馴れしいとこっすわ」

「・・・そ・・・やね」

「俺は先輩らのそういうとこ・・・悪く無いとは、思っとります」


それは、財前なりの精一杯の褒め言葉。
普段しなれないそんな事を、懸命にやろうとしてくれている。
それだけで、千歳の暗く塞がりかけていた心が開けていく気がした。


「・・・そやね」


千歳は抱き締めてくる財前の服を少しだけ掴み、その顔を久方ぶりの心からの微笑みで満たした。


「ほんなこつ心配性で、世話焼きで・・・たいぎゃ優しか後輩たい」



無理に、隠す事なんかない。
隠せば隠すほどボロが出て、誰かを傷つけてしまうなら。
無理なんてせずに、自然体のままで笑い合いたい。

最初に口を閉ざした理由はそもそも、皆の笑顔をこの目に焼き付ける為だったのだから。

残された時間が僅かなら、少しでも笑い合えるように。

千歳は静かに微笑んで、決意した。










 

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