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喪失を越えて

 

 

 

 

 

 

 

今だ残る夏の日差し。

照りつける太陽は加減を知らず、今日も突き刺すような熱を発して地上を見下してくる。

学校も始まったというのに今日は特に暑く、眩しい光は思わず目を逸らしたくなるほどで。

いっそ見えなくしてしまえば、こんな億劫な気分にならなくて済むのではないか。



幼い少女はその日、そんな小さな願望を描いてしまった事を、酷く後悔する事になる。






「・・・えっ!」


学校が終わり早々に帰宅したミユキは、玄関を開けた瞬間にリビングから聞こえた母親の声に目を見開いた。

何事かと思いつつ靴を脱いで、ランドセルを下ろす事も忘れてリビングを覗き込む。
視線の先には予想通り母親の後姿があり、その耳には電話の受話器が当てられていた。


「・・・はい・・・はい」


電話越しの相手に、母親はコクコクと頷きながら返事を返している。
その声は酷く焦っていて、震えてさえいるようにも聞こえた。

ただ事ではない。

幼いミユキにも、母親の異変は直ぐに察する事が出来た。
無意識に息を殺す。
しかし胸の内側から湧き上がる不安をどうにか紛らわしたくて、静かに自分の服の裾を掴んだ。


「・・・分かりました、ご迷惑をおかけしまして・・・。はい、直ぐに伺わせて頂きます」


そう言って母親は震える手で受話器を下ろし、呆然としたようにしばらくそこに立ち尽くしていた。

どうしたものか。

非常に声をかけづらい雰囲気ではあったが、ミユキは見の内から溢れる不安感を隠し通せるほど大人でもなかった。
静かに足を踏み出し、母親の直ぐ後ろへと近付いて、そっと口を開く。


「・・・お母さん?」

「!!」


それまで微動だにしなかった母親が、かけられた声に酷く驚いたように肩を震わせて勢いよくこちらを振り向いた。


「ミ・・・ミユキ!!帰ってきとったとっ?」

「うん・・・」


コクリと頷くも、その手は裾を握ったままで。
わたわたとする母親を見かねて、もう一度自分から口を開く事にした。


「お母さん、どげんしたと??」


尋ねられ、母親は酷く困ったように眉を下げる。
何か悩むようにしてから、ミユキに視線を合わせるようにしゃがみ、ぎこちない笑みを作った。


「何もなかよ。それよりお母さん、ちょっと出かけてこないかんたい、留守番しちょってくれん?」


何でもないはずが無い。

あまりにも下手な嘘に、ミユキの中の不安と疑心は深まる一方だった。
こんな気分にさせられて一人で留守番などできるハズも無い。
せめて理由くらいはっきりさせて欲しい。
何よりも隠し事をされるのがこの上なく嫌だった。


「何も無い訳無いっちゃ。理由も分からんと留守番なんか出来る訳なかろ?」

「そげんこつ言うても・・・」


ほとほと困ったように更に眉尻を下げる母親は、どうにも言い訳が思いつかないようで。
しかしガンとして譲らないと自分を見つめてくる娘に、いよいよ観念したのか深く溜息を吐いた。


「・・・しょんなかね。そん内分かってしまうけん」


そう言って母親は少し視線を彷徨わせた後、少し震える唇を開いた。


「・・・お兄ちゃん、部活中に目ば怪我したけん、救急車で病院運ばれたち電話があったとよ」

「・・・!!!」


小さな声で聞かされた言葉。
しかしそれはハッキリとミユキの耳へと入り込み、冷え切った水が染み渡るように脳へと浸食した。


お兄ちゃんが・・・?
病院・・・?


母親の言葉を頭の中で繰り返す。
と同時に、ほんの数時間前にその兄が見せていた優しい微笑みを思い出した。

いつも自分に構ってくれて、我儘な自分に付き合ってくれて、頭を撫でてくれる優しいお兄ちゃん。

ぼーっとしてるけど、でもテニスが凄く上手で、背が高くて、ちょっとカッコよくて、クラスの子達から羨ましがられる様な、ウチの自慢のお兄ちゃん。

そんお兄ちゃんが、病院ば行かないけん程怪我したと・・・?


「だけん、お母さん今から病院行って来るとよ。ミユキは・・・」

「ウチも行く!!」


思うよりも先に、口がそう発していた。
困りきった母親が口を開きかけるも、それ以上は言わせないとミユキは更にたたみかける。


「お兄ちゃんに会いたか!!ウチも連れてって!!」

「やけん・・・」

「連れっててくれんとなら、お母さん行かせんっちゃ!!」


そう言ってミユキは立ちふさがるようにして出入り口を塞ぐ。
母親は深く溜息を吐いてから、諦めたように妥協の言葉を発した。


「しょんなかね・・・直ぐ行かないけん。はよ仕度してきなっせ」

「・・・うんっ!!」


ミユキは大きくうなづいて、自室へと走りランドセルを肩から降ろして放り投げた。






到着した市民病院のロビーで出迎えたのは、兄が通う学校の先生だったようで。
駆け寄ってきた先生は初めに深く頭を下げて謝ってから、ミユキには聞こえないほどの声で母親に何か話していた。
早々に会話を切り上げ、先生に軽く頭を下げた母親は、ミユキの手を引いて足早に院内を歩いていく。

ミユキの足ではいささか速いスピードであったため、何度か躓いて転びそうになる。
しかしなんとか立て直して、軽く小走りになりながらも必死に母親について行った。

たどり着いた先は、一つの病室へと続く真っ白な扉の前。
母親は一度深く深呼吸をしてから、その扉を引いて開けた。

静かに、ゆっくり、ミユキは母親に手を引かれて室内に入る。
そこには・・・



右目に痛々しく包帯を巻いた兄が、真っ白なベッドの上で静かに横たわっていた。



「・・・千里!!」


母親がミユキの手を離してベッドに駆け寄る。
ハッとしたが、何故かミユキは足が床に縫い付けられたような感覚に陥り、歩くどころか声を発することも出来なかった。


「・・・そぎゃん心配せんでよか」


聞こえてきたのは、いつもよりだいぶ弱々しく、掠れた様な兄の声。
ここからは母親に隠れていてその姿が見えないが、声音からしておそらく、兄はきっと微笑んでいるのだろう。

微笑もうと、しているだけなのかもしれないが。


「何言うとっと!!・・・目は痛かね?」

「鎮痛剤打ってもらったけん。今は大丈夫ばい」


昔から、兄は自分の弱い所を押し隠す癖がある。
それをこんな時にでも発揮しなくても良いだろうにと、ミユキは子供ながらに思う。
それは母親も同じであったようで。


「こぎゃん時くらい、子供らしくせんね!」

「ほんなこつ痛くなかよ?さっきまでは痛かったけん」

「しょんのなか・・・お医者さんはなんて言いよっと?」

「二、三日は検査入院せんといけんち言うとった」

「・・・そんに酷かね?」

「ただの検査ばい。心配なか」

「・・・いっちょん信用できん」

「何ね、そぎゃんこつ言うて・・・ひどか~」


大してそんな事は思っていないのだろう。
特にガッカリしたような風でもない声音に、母親は溜息を吐いた。


「お母さんちょっとお医者さんとこ行ってくっと。ミユキ、お兄ちゃん見とってくれんね」

「・・・ミユキ?」


母親が此方に振り返った事で、今まで遮られていた視界が開ける。
その向こうでは、驚いた顔をした兄が此方を見ていた。


「ミユキも来とったと?」


少し咎める様に千歳は母親を見たが、当の母親も困ったように肩を竦ませただけで部屋から出て行ってしまった。

事情を察したのか、千歳は静かに息を吐いてもう一度ミユキを見る。
しかし、例え母親の影になっていたからといっても、同じ室内に居たのだ。
にも関わらず今まで気付かなかったのは、病室への出入り口が、彼から見て右側にあったからかもしれない。

その為左目の視界にミユキを入れるには、普通よりも顔を傾けなければならない。
だがそれでは首に限界がある為、千歳は片肘をついて身体を持ち上げた。

そこまで来てようやくミユキがハッとしてベッドに駆け寄る。


「お兄ちゃん!動いたらいけん!!」

「問題無かよ。病気になった訳でもなか」

「でもいけん!!コッチ側行くけん、はよ横になんね!!」


慌てたように素早くミユキが左側に回りこむと、千歳は苦笑して大人しく身体を下ろした。


「ミユキは心配性やね」

「心配せん方がおかしか!」


いささか憤慨して言うと、千歳は笑って『すまんすまん』と言いながらミユキの頭を撫でた。

兄に頭を撫でてもらうのは大好きだ。
優しくて、暖かくて、少しくすぐったい。

でも今日はほんの少しだけ、寂しくなった。


「お兄ちゃん・・・目、もう見えんと・・・?」


寂しくなった心が言わせた、小さな呟き。
千歳は一瞬目を見開いたが、直ぐにまた優しく微笑んで軽く頭をポンポンと安心させるように叩いた。


「そぎゃんこつなか。ちゃんと見えっとよ」

「・・・片目だけっちゃ」


確かに包帯を巻いたままでは、何の説得力も無い。
しかし、この包帯を取ってしまえば、現状では恐らくもっと説得力が無いだろう。
千歳は『うーん』と唸ってから、少し困ったように微笑んだ。


「今はこぎゃんもん巻いとかないけんばってん、ちょっとしたら見えるようになっとよ」

「・・・ほんに?」

「ん」


見慣れた兄の微笑みは、やはり何処か寂しげで。
しかしそれ以上追求も出来ずに、ミユキはただその温もりを求めて、頭に伸ばされていた兄の手に抱きつくようにして掴んだ。








視力の回復は難しい。




二日間の検査を終えて聞かされた医者からの宣告は、千歳の心を暗い闇に葬るかのような内容だった。


信じたくない。

信じたくないが、しかし。


包帯を取り除いた事で開けたはずの右目が映すのは、酷くぼんやりとした世界だった。
例えるならば、一切ピントの合っていないカメラを覗くような。

光は見える。
色も他のものと溶け合うようにしてではあるが、なんとなく確認できる。


しかし焦点だけがどうしても合わない。


どれだけ自分の掌を近づけてみても、自分の指が何本を示しているのかが確認できない。

だが左目はしっかりと機能しているため、両目を開けていると酷く気分が悪くなる。
動いてもいないのに三半規管がやられてしまったかのようでめまいがした。


光が見えるのは幸いだった。
しかしこれではいずれ左目まで悪くなってしまいそうな気がするし、なにより両目を開けているだけでめまいがしていては単純に喜ぶ事も出来ない。


千歳はベッドに沈み込むように横になり、ゆっくり両目の瞼を閉じた。
例え見えなくなろうとも、存外なんとかなると思っていた。
見えずとも見えているフリさえすれば、親にもミユキにも心配させる事は無い。


しかし、これでは。

片目での生活には少し慣れ始めていた為、包帯を巻いたままにすれば問題は無いかもしれない。
だがその包帯がまたやたらと痛々しく見えるのだから、そういう訳にもいかない。
眼帯にしても同じ事だ。


それに。

・・・何より。


遠近感が掴めない。
予想以上に視界が狭い。
身体のバランスが取りづらい。



これでは、まず無理だ。


あの場所に立つことすらままならない。



何もかもが崩れていく。
中心にあった、何にも変え難いその存在が消えていく。


今まで、これ程までに渇望した事は無かった。
失って初めて気付くとは、まさにこの事。




立ちたい。


もう一度あの場所に。




それが叶わない事が、こんなにも苦しい事だったとは思いもしなかった。


閉じられた瞼の下に映る光景。

鮮明に蘇る感覚。

ゆっくりと目を開ければ、それはぼやけた視界と共にあっけなく霧散した。





・・・あぁ。



俺はこぎゃんにも・・・テニスば好いとう・・・。





心の中で、何かが弾けた音が響いた瞬間。
千歳は病室から姿を消した。






 

 

 

 

走って。
探して。
また走って。
日が暮れ始めた頃にようやく見つけたその人は、何とも異様ないでたちでそこに居た。





事の始まりは、今日の昼下がりの事。
休日で自宅に居た杏は、突然かかってきた一本の電話に驚いて声を失った。


『千里、杏ちゃんとこいっとらんとね!?』


聞きなれた友人の母親からもたらされた、突然の事件。
何事かと問えば、検査入院していた筈の千歳が突如病室から消えたとの事だった。

杏は二日前の事故を当然知ってはいたが、どんな顔をして千歳に会えばいいか分からずそのままになってしまっていた。

会いに行かなければ。
そう思いつつも一歩が踏み出せない。

千歳も、両親も、あのミユキですら、兄である桔平を責めない。
長い付き合いだ。
彼等の性格を考えれば、それも当然の反応であったかと思う。

それでも、責任感の強い杏は少なからず罪悪感をもっていた。
だからこそ会いに行かなければと思っていたのだが。


「・・・どげんして・・・」


無意識に呟いていた言葉に、千歳の母親は言いづらそうにしながらも、事情を話してくれた。
それは杏が持っていた罪悪感を、更に深く抉るような内容だった。


『・・・今日の検査で、千里の視力ば・・・もう戻らんち言われたとよ』

「えっ・・・!?」

『光は見えっとも焦点が合わんけん、見えちょらんのと同じって』


千歳さんの右目が・・・
もう・・・直らない・・・?


『平気そうにしちょったばってん・・・平気な訳無かね・・・気付かんで目ば離しちょったら、そん隙に居なくなっとったとよ』


普段から放浪癖があった千歳だが、さすがにそんな状況で散歩に出たりはしないだろう。
杏は青ざめていく自分の顔を軽く左右に振って、極力声を震わせないように勤めて口を開いた。


「私も探してみます。見つけたら連絡ばしますから」

『ほんに?迷惑ばかけて堪忍ね、助かっとよ。何か分かったらまた電話するけん』

「分かりました」


電話を切って、杏は直ぐに家を飛び出した。


会わす顔が無い。
どう声をかければいいのかが分からない。


いろんな事が頭を過ぎった。
だがそんな雑念を振り払うように、もう一度頭を振る。
考えている暇は無かった。
一刻も早く見つけなければと、本能がそう言っていた。



千歳の行きそうなところを片っ端から探す。
近所の公園、学校の裏山、猫の集会場。
しかし何処を探しても彼の姿を見つける事は出来なかった。

もしかしたらもう、病室に戻っているのかも・・・とも思ったが、それなら既に千歳の母親から連絡が来ているはずだ。

ただただ気が焦っていく。
ほとんど立ち止まる事無く走り回ったせいか、杏の足はもう限界を超えていた。
それでも、杏は前に進む。


最後の最後。
ここが駄目なら、もう探しようがない。


日が沈み行く中で、杏はとある場所へとたどり着いた。
数年前、杏と桔平と千歳の三人で遊んでいたときに偶然見つけた、小さな高台の上にあるテニスコート。

テニスコートとは言っても決して綺麗に舗装されている訳ではなく、土の地面に消えかけたラインが引いてあり、ネットもボロボロでいかにも手作り感が溢れる代物だ。
杏は祈るような気持ちで高台を登り、コートに足を踏み入れる。


しかしそこに千歳の姿は無かった。
脱力感と急激な疲労感に襲われた杏は、その場に力なく座り込む。
涙が滲むその瞳には、町に沈み行く夕日が見えた。


どうして・・・
一体何処へ・・・


そう思ったとき、不意に視界の隅に何かが映りこんだ。
何だとそちらに目を向けると、コート脇にある気の根元に、なにやら黒い影が見えた。
驚いて一瞬肩を震わせたが、もう一度目を凝らして見てようやく気付く。


ふわふわと風になびいている髪は癖が強く、纏っている服は完全に病院着。
背後の木によりかかり、片膝を立てそこに額を乗せている姿はなんとも弱々しく。
もう片方の長い足は裸足のまま前方へと投げ出されていた。

見間違えるはずが無い。
捜し求めたその人が、今そこに居る。

杏は震える足をもう一度立たせて、静かに歩み寄った。
近くまで来たものの、千歳は微動だにしなかった。


生きているのか?


そう疑問に思ってしまうほど、千歳は動かない。
どうしたものかと悩んでいたが、意を決して声をかけた。


「・・・千歳さん・・・?」


そこに来て、ようやく千歳の肩がびくりと震えた。
ゆっくり、ゆっくりと千歳の顔が上げられていく。
やっと目が合ったと思ったとき、今度は杏が凍りついたように動かなくなった。


千歳の右目周辺に残る微かな痣と、その中央に潜む焦点の合わない目。


例え杏でなくとも、目を伏せたくなるような姿だった。


「・・・杏ちゃん」


掠れた声に身を震わせる。
以前の千歳からは想像もつかない程に弱々しい姿に、杏は思わず泣いてしまいそうだった。

千歳はしばらくぼんやりと杏を見上げていたが、ふと視線を外して横を見る。
その先には、あのテニスコート。


「・・・急に此処へ来たくなったとよ。懐かしかね」


その目はまるで遠い過去を見ているように細められている。
杏は何も言えず、ただその場に立ち尽くした。


「ばってん、実際来てみれば・・・足が竦んでラインも超えられんばい」

「・・・千歳さん」


どうして、とは聞けなかった。

あの事故を思い出すから?

見えないことがつらいから?

もう、テニスが出来ないと分かっているから・・・?


いろんな事が頭に浮かんだ。
そして結論付ける。
・・・恐らくそれら全て、当たりなのであろうと。


「・・・綺麗ばい」

「え・・・?」


思考の淵に落ちかけていると、不意に千歳がそう呟いた。
何がと千歳に目を向けると、彼は静かに夕日を見ている。
夕暮れ色に染まる千歳の顔は穏やかで、寂しげで、優しい。

こんなときに。

いや、こんなときだからこそなのかもしれない。

鼓動が早まるのを止められない。


杏が密かに抱き続けてきた恋心。


だがそれを自覚する度にいつも思い知るのだ。
この人はとても深く大きな心を持つ人。
近くに居るはずなのに、どこか遠くに息づいている様な・・・。

しかし、だからこそ目が離せないのかもしれない。
手が届かないからこそ人は憧れて、心を捕らえられてしまうのだ。


「・・・千歳さん・・・私」

「ん?」


気付けば、無意識に名を呼んでしまっていた。
俯いていた顔を上げれば、優しく自分を見上げる左目と視線がぶつかる。

どうしてこんなにも、優しいのだろう。
それこそ泣きたくなる程に。
縋り付いてしまいたくなる程に。


・・・誰かに縋り付きたいのは、むしろ彼の方なのかもしれないのに。


つい思いを告げそうになってしまった言葉をグッと飲み込んで、杏は全く別の言葉をなんとか口にする事が出来た。


「・・・あの・・・さ、散々探しちょったばってん、いっちょん見つからんで困っちょったと!」

「あぁ、そら悪かこつしたばい。暗くなる前に戻るつもりだったと」

「せめておばさんには一言言ってあげんね、心配しちょったとよ?」

「はは、無意識だったばってん、後で謝っとくったい」


少し困ったように微笑んで、千歳はよっと声を上げて立ち上がる。
と、思った瞬間、不意にグラリと長身が傾いた。


「っ千歳さん!!」


考えるよりも先に手が出て、地面に衝突しかけた千歳をなんとか受け止める事が出来た。
2、3回目を瞬かせてから、千歳は一言謝って身体を持ち直す。


「悪か・・・助かったばい。・・・ん~・・・慣れんばいね・・・目回っとよ」


億劫そうに呟きながら右目を擦っている姿を見て、杏は慌てて鞄からハンカチを取り出して手渡した。


「擦ったらいけんよ!!菌入ったら大変っちゃ!これば当てて、右目覆っといた方がよか!」

「ん・・・ありがとうね。杏ちゃんはよか子やね」


ハンカチを受け取った千歳は素直に手で押し当てるように右目を覆い、また優しい顔で頭を撫でてくれる。
再び胸を高鳴らせる杏だったが、ふと思った。


この眼差しは、もしかしたら・・・ミユキちゃんに向けるそれと同じ・・・?


そう考えると、少し寂しくて。
無意識に下がってしまった杏の顔を、千歳が心配そうに覗き込んだ。


「・・・どぎゃんしたと?」

「・・・えっ!」


突然視界に入ってきた千歳に驚き、思わず一歩引いてしまう。
不思議そうな顔をしている千歳に何でもないと伝えれば、不服そうにしながらもそれ以上は聞かないでくれた。

そろそろ戻らなければと足を踏み出したとき、ある事を思い出す。


「・・・そういえば、千歳さん裸足でこぎゃんとこまで?」

「ん?あ、気付かんかったばい。まぁ此処まで来れたち、帰りも行けっとよ」


ニコリと微笑んで返されては、杏ももう何もいえない。
そもそも病院着でフラフラと歩いていた時点で誰も何も言わなかったのだろうか。
とにかく、この際周りの視線なんぞ気にしている場合ではない。
一刻も早く千歳を送り届けなければ。


「はよ戻らんね。病院まで送っていくとよ。・・・歩けるとね?」

「問題無か」


そう一言返した千歳が、最後にもう一度コートに目を向けた。
一歩先を歩いていた杏は、着いて来ない気配を不振に思い振り向く。
思慮深げにコートを見つめる姿にどうしたものかと考えていると、不意に声をかけられた。


「杏ちゃん」

「え?」

「俺・・・こぎゃんとこで終わるつもりば無かよ」

「千歳さん・・・?」


コートを見据える横顔には見覚えがある。
少し考えれば答えは直ぐに出てきた。

・・・これは、試合をしているときの顔だ。

この人はコートに立つといつもの柔らかい笑みが消えて、不敵で隙の無い、別人のような顔つきになる。

千歳は手を握り締め、更に目を細めて続けた。


「此処で治らんとなら、治せる場所に行くだけったい。・・・テニスば出来んち言うなら、出来るようになる方法を探せばよか」


どうしても、踏み入る事の出来ない絶対の境界線。
その重みを知る千歳だからこそ。
今の状態で、自分がこのラインを超えてネットの前に立つ事が許せなかった。

ただ。

それを実際に再確認する事が、今の千歳には何よりも必要な事だったのだ。
おぼろげでも、方向だけは見えた気がする。
それだけでも、見失いかけた自分自身を手繰り寄せるには十分だった。


「心配ばかけてスマンばい。・・・ばってん、もう、大丈夫とよ」


コートから杏へと向けられた顔にはもう、何かを押し殺しているような色は見られなかった。


自分は何も出来ない。
同じ荷を背負えるほどの人間でない事も理解している。

それでも。

この人がそう言って微笑んでくれるのなら。
自分も少しは役に立てたのだろうか。


返答の変わりに精一杯の微笑みを返すと、千歳は今日一番の笑顔と共に頭を撫でた。
その手は大きくて、暖かくて。

その本意は分からないけれど。
これだけは言える。



何十年たってもきっと、私はこの温もりを絶対に忘れない。



この日を、忘れない。






数日後、橘家は東京へと引越し、千歳は単身大阪へと旅立つ。




今は、しばしの別れの時。




喪失を越えたその先にあるものを、手に入れるために。






 

 

 

 

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