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白線の向こう側

 

 

 

 

 

 

 

光を失うと言うのは

一体どれ程の苦痛で

どれ程の恐怖で

どれ程の寂しさがあるのだろう。

きっと自分には

自分達には、その痛みを共有する事なんて出来ない。

この目が光を映す限り、それを実感する事は出来ない。




ガットに弾かれるボールが放つ軽やかな音。
コート回りをランニングしている1、2年生が発する掛け声。
何時もと変わらない部活風景の中で、フェンスを背にして佇む千歳の姿は、今や当たり前のようになっていた。


ただ、何時もと違う事が一つだけ。


部活が開始されてから30分。
普段なら騒がしいとすら言えるほどのレギュラー達が誰一人として、その口を開こうとはしなかった。

分かっている。

千歳はきっと、こうなる事が分かっていたから今までなにも告げなかったんだ。

分かっている…けど。

常に笑いを求めている彼等ですらその口を閉ざしてしまうほど、先程の宣告は重た過ぎるものだった。



そんな中でただ一人。
動き出した男がいた。
誰よりも何よりも、『笑い』を求める男。
こんな中で真っ先に動いたのがその男だったと言うのはあまりにも意外で、しかし彼らしくもあった。


「千歳」

「ユウジ?」


声をかけて来た相手に目を向け、直ぐに意外だとでも言いたげに目を見開いてきた。
いつも肩を組んでいるはずの相方が、今日は居ない。
ユウジは視線に気付くと、不機嫌を隠すことなく顔をしかめた。


「なんや、俺が一人で話しかけたらあかんのか」

「そげんこつなかよ?なんね」

「フン」


苦笑とも言える微笑みを浮かべた相手に鼻をならすと、ユウジは愛用のラケットを肩に当ててふんぞり返り、自分よりも幾分か背の高い千歳をまるで見下すようにして口を開いた。


「テニスすんで」

「え…」

「何驚いてんねん。此処はテニスコートで、今は部活や。当たり前の事やろが」

「ばってん、俺は…」

「関係無いわ」


間髪入れずに告げられた言葉に、千歳はただ口をポカンと開けてしまう。
それでもユウジは変わらない不機嫌な顔で続けた。


「普段平気でフラフラサボりよったお前が、まだ退部せんと真面目に此処来とるやん」

「それは…」

「テニスしたいからとちゃうんか」

「……っ」


返す言葉が無かった。
確かに、失っていく光を自覚したその日から、千歳は毎日欠かさず部活へと顔を出していた。
皆の笑顔を、少しでも長くこの目に焼き付ける為に。
少しでも、少しでも。

だがそれとは別に、自分自身の心の中ですら隠し続けた、気づかないふりをしていた感情。


もう一度、彼処に立ちたい。
テニスがしたい。


しかし、それは叶わない夢だと。
許され無い願いだと。


そう突きつけられる事が恐くて、その気持ちに蓋をした。

……なのに。


「…テニスは…もう、出来んけん」

「なんでや」

「なんでって…」

「俺は別に試合せぇ言うてるんとちゃうわ」

「え?」

「『テニスすんで』って言うただけやろ」

「なんば言うとうとや、ユウジ…」


理解できない。
ほとほと困り果てて、千歳は視線をさ迷わせた。
だがユウジの顔はいたって真面目で。


「ラケット持って、コートに立って、ボールをラケットに当てるんや。それがテニスやろ」

「……っ!!」

「目に負担かけるだの、そんなもん俺は知らんわ。ただお前がテニスしたいって思うんならしたらええんとちゃうんか」


想像を越えた言葉だった。
出来ないと。
叶わないと。
封じ込めていた願いへの導が、いとも簡単に目の前へと提示されてしまった。

唇が乾く。
喉が震える。

医者から止められていた。
もう、試合をしてはいけないと。
自分でも分かっていた。
テニスという『競技』が、どれ程目への負担となっているか。
だから、もうあの場所には立たないと、立てないと、そう思っていたのに。


立っても、いいの?

ラケットを、持って良いの?

皆と、一緒に……


「『テニス』して…良かの……?」

「勝手にしたらえぇやろ」


やっとの思いで絞りだした、願い。
それはいとも簡単に。
しかし何処か優しさの込められた言葉によって背中を押された。

「千歳のテニス、好きなようにしたらえぇだけの話やろが」


それだけ言って、彼はまた最初と同じように鼻をならして踵を返した。向かう先は空いていたテニスコート。
そのネットの向こう側に立ったユウジは、急かす訳でもなく、呼ぶ訳でもなく、こちらを見る訳でもなく。

ただその手にラケットを持って、ポケットから取り出したテニスボールをポンポンと、ガットの上で弾ませた。


千歳はカラカラになった喉を、己の唾液を飲み込むことで潤す。
震えそうになる唇を噛み締めて。
フェンスに立て掛けていたラケットを手にする。
その手は震えていて、それを止めるようにギュッとグリップを握り締めた。

一歩。
また一歩。

ゆっくりとその足をテニスコートへと向けていく。

いつの間にか静まり返っていた辺りにも気付かずに、千歳はゆっくりと、確実に歩を進め、そして。

あまりにも遠く、まるで天までそびえ立つ壁のように感じていた白いラインを、越えた。

体が震える。
目頭が熱くなる。
灰色がかった世界が、水分を貯めて揺れる。
その視線の先で、ポンポンとボールを弾ませていたユウジの動きが止まった。
そして、何も言わずに彼は構えて。
千歳の左側へと向けて、緩やかなサーブを放った。

千歳は無意識に、体に染み付いていた感覚を持ってしてそれを打ち返す。
決して強くはないけれど、確かに感じた腕への懐かしい感触。
遠く感じていたはずのインパクト音。

それはまた当然のようにユウジに打ち返され、また戻ってくる。
打ち返して。
戻ってきて
また打ち返して。

たたそれだけの事。

走り回るでもない。
小技を加えるわけでもない。

ただ、本当に、本当に緩やかな、ラリー。

しかしそれは、千歳が心から欲した『テニス』そのものだった。

目に貯まっていた涙が溢れて。
自然と頬を伝った。

何度も往復していたボールは、ユウジの手の中へと収まる。

千歳はグリップをいっそう強く握り締めて、止まらなくなった涙を拭うでもなく、しかし声をあげるでもなく。

ただコートに立ったまま、泣き続けた。


「テニス、おもろいよな」


不意に、対面していたコートから飛んできた言葉。
千歳は咄嗟に声が出ず、しかしゆっくりと、ゆっくりと頷いた。


「また相手したらんでも無いわ。……ま、小春が手放せへんときだけやけどな」

「…ん………ありがと」


震える喉で、ただ一言。
それだけを返すと、ユウジはほんの一瞬、優しい微笑みを浮かべて。
しかしその一瞬後には再び不機嫌そうな表情を浮かべて、いつも通り鼻をならしてから去っていった。

楽しい。
嬉しい。

コートに立てた。
ボールを打てた。

『九州二翼』としてではなく。

『四天宝寺』としてではなく。

『千歳千里』として、もう一度テニスをすることが出来た。

ただ、それだけで。



千歳はもう一度己の立つテニスコートをしっかりと踏みしめて、静かに微笑んだ。






 

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