第十二幕
それは終戦間際。
まだ、高杉が隻眼となる前の事。
多くの同士達が死んでいった。
屍の道を歩いてもなお成し遂げたかった想い。
その道すらももう、閉ざされようとしている。
幕府の中核を天人に掌握されてしまった今、自分達の敗北はほぼ決定付けられていた。
「・・・なぁ」
もう既に、刀を振るう力すらも捥がれ廃屋の隅へと身を寄せていた時、小さくそれは呟かれた。
消え入りそうな声だったけれど、それを聞き逃すハズは無い高杉は、同じく呟くように返す。
「・・・なんだ」
「・・・最近の俺な・・・おかしいだろ?」
「おめぇがおかしいのはいつもの事だろうが」
「本当ムカつく野郎だなおめーは。・・・そうじゃなくてよ。・・・戦ん出てる時」
「・・・」
その問いかけの意味。
問い返さずとも初めから気付いていた。
気付いていても、気付かぬフリを通した方が賢明だと考えていた。
しかし。
沈黙を肯定と捉えたらしい銀時は小さく溜息をつき、背を預けていた壁に更に体重をかけ腐りかけた木製の天井を仰ぎ見た。
「”アイツ”が、動いてんだよな」
「そんなもん俺の知った事じゃあるめぇよ。・・・おめぇじゃねぇなら、そうなんじゃねぇのか」
「・・・今まで、表に出る時は声かけてきてたんだがな」
高杉は目線だけを隣に座る銀時に向ける。
ぼんやりと天井を見詰めたままの横顔からはその心情を察する事は出来ず、直ぐに正面の扉へと視線を戻した。
「最近戦場に出た記憶がねぇ。問いかけても応えやがらねぇし。何か知らねぇ?」
「何度も言わせるな。知らねぇと言ってんだぜ、俺ァ」
「オイオイ。おめぇら仲良かったんじゃないの?」
確かに。
今よりも遥か昔。
まだ先生が生きていた頃、迫害によって殺されかけた銀時を命からがら救い出した時。
初めてあったもう一人の”銀時”は友好的に接してきた。
だがそれも片手で数えられる程で、最後に話したのは先生が死んだ直後だ。
友好的というのも他の子供達に比べたらというレベルで、ましてや親しいとはとても言い難いような会話だった。
その僅かな会話の中で高杉が感じて理解したのは、もう一人の存在が銀時に強く依存している事。
そして何よりも、銀時に接する肉体を持つ存在に対して、深い嫉妬と憎悪にも似た感情を秘めているらしい事だった。
だが依存しているのは銀時も同様。
だからこそ今まで高杉はその事を口にしなかったし、直接的な害にならないならばと知らぬフリをした。
しかし。
ここ最近、戦場で見せる銀時の異常なまでの殺戮行動を不振に思った高杉は、直ぐにその中の存在が原因だと合点がついた。
それでも銀時が気付いていない以上それを口にする事は無かったが、広まり始めた銀時に対する同士達の疑念はもはや収拾が付かないまでに広がっていた。
「・・・俺はよ。あいつには感謝してもしきれねぇと思ってんだ」
「そうかよ」
「あいつが居たから、俺は今も生きてる。・・・でもよ」
不意に言葉を切った銀時は天井から視線を外し、代わりに広げた自らの掌を見つめる。
それは白く傷ひとつ無いはずなのに、何故か血塗られた紅色に見えた。
「自分の身体が知らねぇうちに動いて、知らねぇうちに誰かを斬ってると思うとな。・・・心底不気味な気分なんだよ」
「斬ってんのは敵だろうが」
「それでもよ。・・・”命”斬ってんのには違ぇねぇだろ」
「・・・」
自分達は既に、数え切れない程の天人の返り血を浴びてきた。
戦に出て直ぐに、それが”命”という感覚など高杉からは消えていた。
斬っているのは”敵”で、そうしなければ仲間はおろか自分すらも斬られる。
それは自分だけでなく、桂や坂本を初めとする多くの者達とてそうであったハズだ。
そう思わなければ戦争など出来るハズが無い。
にも関わらず。
もう一人が動き始めるよりも遥かに前から、誰よりも突出した戦力を見せ付けて戦場を駆けていた銀時が。
その踏み越えて来た全ての血肉を”命”と呼ぶというのなら。
高杉はようやく、もう一人の存在が動き始めた理由を確信した。
でなければ今頃、当の昔に銀時の精神が崩壊していたはずだと。
そのやり方が正しかったかどうかは分からないけれど、少なくとも。
それが”彼”なりの救済措置だったのではないか。
「俺の為なんだろうなってのは分かってる。・・・でもな、俺自身が把握出来ねぇんじゃどうしようもねぇ」
「・・・そうした方が良いと思ってんじゃねぇのか」
「だとしても、エスカレートしてきてんだろ、最近」
否定は出来ない。
不必要なまでに死骸を引き裂いたり、酷い時は仲間にまでその刃が向きかける事もある。
「だからよ。・・・アイツと、離れなきゃなんねぇと思ってんだ」
「そんな簡単に出来んなら初めから苦労はあるめぇ」
「あぁ。簡単じゃねぇさ、アイツもだんまり決め込んでやがるしよー」
「説得でもするってか?」
「それしかねぇだろ。離れられねぇんならせめて、出てこねぇようにしねぇと。・・・それに」
「なんだ」
再び言葉を切った銀時はその首を此方へと向けて、うっすらと、しかし儚く微笑んだ。
「俺ァもう昔と違って、一人じゃねぇ。ヅラも、辰馬も・・・心底ムカツクが、おめーも居る」
「・・・っ」
「だからもう、そんな心配しなくても良いんだって、伝えてやろうと思ってよ」
・・・初めてだった。
銀時が、こんな事を言ったのは。
嬉しいと思った。
素直に、心から。
ちゃんと自分達の想いは伝わっていたんだと。
少しでもその傷だらけの心を支えて居られたんだと知る事が出来たから。
もう、この戦争も終わる。
敗北したとはいえ、これ以上銀時の心が傷つかずに済むのなら。
前を向いて、自分自身の力で歩み出そうとしているのなら。
それを止める理由など、高杉には何一つありはしなかった。
「おめぇがそれで良いと言うんなら、好きにすりゃあいい」
自分自身で、決めた事なら。
自分はただ、これからもそれを見守り続けるだけだ。
高杉は僅かに優しい色を含めた笑みを浮かべて、銀時へと視線を向ける。
向けた先の儚かった微笑みは、視線が合った事で嬉しそうなものへと変わった。
「・・・晋助。一度しか言わねぇからな。耳かっぽじってよく聞いとけ」
「ま、聞いてやらなくもねぇ」
「腹立つんですけどー。ま、いいや。・・・まぁ、その、何だ。・・・これからも一緒に・・・っ!?」
少し照れくさそうに。
幾分か小さくなった声は、不自然に途切れた。
と同時に、微笑まれていた顔ががくりと俯かれる。
「おい?」
突然の事に動揺を隠しきれないまま高杉が手を差し伸べようとした、その時。
「・・・っ!!??」
背中に感じた衝撃。
右肩から来る灼熱のような痛み。
喉への強烈な圧迫感。
気が付けば自分は組み敷かれており、己の首は絞まるか締まらないかの強さで掴まれ床へ縫いつけられていた。
何とか頭を傾ければ血塗られた刀が転がっている。
恐らく居合いの如き速さで肩を切り上げられたのだろう。
痛みに息を詰めながら首に巻きつく腕の先に眼を送れば、見慣れたはずの紅玉。
しかしそれは高杉ですら畏怖してしまう程の憎悪に染まり、真っ直ぐに自分を見下していた。
「ぎ・・・っ・・・銀・・・っ」
「気安く呼ぶな」
首を絞める腕に、更に力が込められる。
だが発せられた言葉は酷く静かで、無感情。
銀時のものであるはずなのに、全くの別人のような。
高杉はその声音に覚えがあった。
そう、最後に聞いたのは。
・・・先生が死んだ、あの時だ。
「久しぶり、というには可笑しいか」
瞳は憎悪に染まっているというのに、その口元は心底楽しそうに笑っている。
その不自然な組み合わせがあまりにも不気味で、高杉は締まる喉でなんとか生唾を飲み込んだ。
「戦場に出る俺に気付いていたんだろう?お前は」
「・・・当たり・・・めぇだ・・・っ」
なんとか空気を吸い込み、苦しげに顔を歪ませながらそれだけを言う。
だが”彼”の顔は更に不自然な笑みが深まるばかりで。
高杉は背筋に走る寒気を確かに感じた。
「よく見ているんだな。その眼で、銀時を」
「・・・っ」
「銀時も、やっぱり不確かな俺よりも・・・視界に映るお前の方が良いか」
「聞いて・・・たのか・・・ッ!」
「当たり前だ。銀時の声は全部聞いてる。聞き漏らすハズが無いだろう?」
「なら・・・っ・・・なんで応えてやらねぇ・・・っ!!」
「決まっている。銀時がそれを望んでいないからだ」
”命”を斬る痛み。
それに押しつぶされそうな銀時を、もう見ていられなかった。
そんなにも苦しい事なら、変わりに自分が請け負おう。
何も考えなくて良い。
何も心配しなくて良い。
知らない間に戦が終わっている。
それを不自然に思うのは当然だ。
俺が出ている事にも直ぐに気付くだろう。
それでも、心の何処かで安堵していただろう?
”命”を斬ったのは、”自分”じゃないと。
俺に”何故だ”と聞いてきても、”止めろ”とは言わなかったろう?
お前は天邪鬼だ。
仮に『俺が出る』と言えば、『そんな事はさせない』と意識を強めただろう。
だから、何も言わなかった。
何も応えなかった。
「それが・・・これ程裏目に出るとは思わなかったけど」
「そいつは・・・おめぇのせいだろ・・・っ」
最初の頃のように、ただ銀時の代わりとして戦場に立つだけなら、あの銀時が”彼”との決別を選択するはずは当然無いだろう。
しかし、その異常性は意識の無かった銀時ですらもハッキリと分かるもので。
それこそ徐々にエスカレートしていくその感覚に、少なからず恐怖を覚えてしまう程に。
「それは仕方ないだろう?いつもいつも銀時を傷つける塵が、飽きもせずにのさばるんだから。・・・いい加減目障りだったんだ」
言葉を発すると同時に、口元に浮かんでいた笑みが姿を消した。
変わりに銀色の全身から沸きあがったのは、純粋なまでの殺意。
「それでも。畏怖しながらも、銀時は俺を頼っていた。縋っていた。・・・それがどうだ?」
「ぐ・・・っ」
感情の昂ぶりと同時に、更に締まる首。
苦しげに眉間に皴を寄せた高杉には一切構わず、銀色はなおもまくし立てた。
「いつの間に銀時の中に潜り込んでた?俺ですら分からなかった銀時の内面に、いつの間にお前は入り込んでいた・・・っ!?」
「知らね・・・っ」
「俺を亡くしても生きて行けると、そう銀時が思う程、何故お前の存在が肥大している!!」
「・・・っ」
「・・・お前の姿が見えるからか」
いよいよ首の骨が折れると覚悟したその時。
ポツリと落とされた言葉と共に、首の圧迫感が消えた。
急激に進入した酸素に咳き込みながら、銀色に眼を向ける。
その視線など一切気にしていない様子で、小さな呟きはなおも続いた。
「・・・お前は、銀時に触れられる」
「・・・あ?」
「銀時は、お前に触れられる・・・。銀時は、お前が見える。・・・お前は・・・」
「俺ですら”見る”事の出来ない銀時を・・・その眼に映せる」
何を言っているんだ。
そう口にしようとした高杉だった。
・・・が。
「・・・ッッ!!??・・・ァ・・・ッグァアア!!!」
突然襲った左目への強烈な痛みで、それは言葉にはならなかった。
いや、痛み所の騒ぎでは無い。
確かに感じる、左目付近からの異物感。
まるで灼熱の火でも噴出しているかのような感覚。
床に縫い付けられている事で、重力に逆らう事無く左耳の内部に入り込む水分は血か涙か。
人体の許容量を超える痛みに昏倒しかけた脳内で、なんとか理解する。
今、自分はこの銀色に、眼球を抉られているのだと。
眼球の裏側に入り込んだ銀色の指は、容赦なく外側へと力を加えてくる。
「・・・ッァアァアア!!!やめ・・・ろ・・・ッ!!」
「この眼を潰せば・・・銀時の姿は見えなくなるだろう?」
「・・・・・ッッッ!!!!」
言葉と同時に高杉の左目は、おおよそ人体に必要な様々な管を引き千切る音と共に引きずり出された。
もはや高杉の絶叫は声にならず、残った右目をこれでもかという程見開きながら、左目からの大量の出血を無意識に塞ぐように両手を当てた。
「取れた。・・・もう一つ」
怒りも喜びも感じられない、無感動な言葉。
むせ返るような痛みは吐き気すら覚えて。
床に転がる、今まで世界を見つめて来たはずの己の眼球。
気が狂いそうな状況の中で、高杉は無意識に呼んだ。
「・・・ぎん・・・とき・・・ッ!!!」
「・・・?」
真っ赤に染まった右手が、今度は右側へと伸びかけた瞬間。
まるで呼びかけに応えるように動きが止まった。
「銀・・・とき・・・ッ」
無我夢中で叫ぶ。
白く霞む脳内で、唯一ハッキリと浮かぶ幼い子供の笑顔。
愛しくて堪らない、護り抜くと決めた笑顔。
それを失いたくなくて。
あの優しい声を聞きたくて。
高杉はただその名をうわ言のように呼び続けた。
「銀時・・・ッ!!!」
「・・・ッ」
紅玉が軽く見開かれる。
一瞬僅かに震えたかと思えた瞬間。
今までの無感情とは別の、呆然としたような瞳がそこにあった。
視線は目下で顔面から大量の出血をしている高杉の姿。
そして、次に床に転がる・・・。
「え・・・」
掠れた声が吐き出される。
先程、高杉と話しながら見つめた自分の掌は、幻覚で紅く見えた。
それが今は、確かな生暖かさと、ぬめりと共に。
「あ・・・ッ・・・銀・・・ッ」
「晋助・・・?」
呟かれた己の名に、高杉は朦朧としていた意識を何とか呼び戻した。
同時に愕然としている銀時の表情を右目が捉える。
あぁ、違う。
違うのに。
お前がそんな顔を、する必要なんか無いのに。
もはや痛みすら感じなくなってきた左目。
しかし、過度な出血の為か酷く眩暈がして気持ちが悪い。
高杉は遠のいていく意識の中で、己の血に濡れた手で銀時の白い頬を撫でた。
「銀・・・ッ・・・違・・・お前じゃ・・・ッ」
お前じゃない。
違うんだ。
お前のせいじゃない。
お前の声が聞きたかった。
でもそんな顔を見たかったんじゃない。
違う。
お前のせいじゃ、ないんだよ。
「あぁあ・・・晋助・・・晋助・・・っ」
震えだす銀時の身体。
高杉の想いは言葉にならず、代わりに浅い呼吸となって消えた。
「俺の・・・ッ・・・俺・・・ッ!!!」
頬に触れていた高杉の手が、力を無くして床へと落ちる。
保っていた意識が薄れ、遥か遠くの方で聞きなれた泣き声がした。
あぁ、また泣いていやがるのか。
今度は誰にいじめられた。
こんな傷だらけじゃ、先生が心配するだろ。
仕方ねぇから、おぶってやるよ。
だから、ほら。
・・・早く泣き止めよ。
残った右眼がゆっくりと閉じられ、高杉が完全に気絶した瞬間。
狂ったような、悲痛なまでの銀時の絶叫が響き渡った。
高杉の目が覚めた時、銀時の記憶からもう一人の存在が消えていた。
その存在自体が消えたのかどうか。
そこまでは分からないが。
しかし少なくとも今の銀時は、自分が二重人格であった事そのものを忘れているようで。
もう一人の記憶を失った事で、高杉の目を潰した行為自体は覚えていないものの、それが自分のせいであると言う自責の念のみが残ってしまっていた。
高杉がいくら何を言おうとも、銀時はただ泣きそうな顔で謝るだけで。
抱き締めようとした高杉の腕から、銀時は逃れるように抜け出し、目の前から去ってしまった。
ほんの、ほんの少し前だ。
ようやく心を開きかけてくれたのに。
嬉しそうに微笑んで、これからも一緒にと。
そう言ってくれたのに。
高杉は空洞となった左目以上に、胸の奥で暗く悲しい喪失感を感じた。
いっそ・・・忘れるなら。
不謹慎だとは分かっている。
それでも願わずにはいられなかった。
ただ、笑っていて欲しいだけなんだ。
先生と居た、あの頃のように。
それだけなのに。
どうして。
どうして・・・。
「アイツがお前を拒むなら・・・待つしかあるまい」
「・・・」
「・・・お前には酷かも知れんが・・・銀時を思うならな」
桂の静かな声は、まるで高杉の心を見透かしているようで。
「もし・・・銀時の心を癒せる者が現れるならば、その者に託すしかあるまい」
「・・・アイツを護るのは・・・」
「護ればいいさ。・・・どんな形であっても」
近くに居る事だけが全てじゃない。
遠くに居ても出来る事はある。
真に銀時を思うなら。
高杉は沈黙をもってそれに応えた。
失われた左目がじくじくと痛む。
切り上げられた肩がどくどくと脈を打つ。
まだ終わりじゃない。
そんな気がしてならない。
数年後、またしても銀時を襲う悪夢を予見するかのように。
高杉は残された右目を忌々しげに細めて唇を噛み締めた。