top of page

 

 

 

 

 

 

 

ただ気だるげに。

全身の力を抜いて縁側に座り、開け放たれた窓に寄りかかるその後姿は、いつも見慣れた兄のものであるはずなのに。

ゆったりと、自然を愛でるように見つめるその瞳は、紛れも無く兄のものであるはずなのに。

どこか哀しげで。

寂しげな気がするのはきっと、気のせいなんかじゃ無い。

近寄りがたい雰囲気が漂うその背中ではあるものの、反面心の中では今行かなければと背中を押す。

一度コクリと生唾を飲み込んでからゆっくりと足を進め、そして。


「・・・っ?」


比較的大きな背中へ自らの身体を預けるようにして、その首へ腕を回すように静かに抱きつく。
ピクリと肩を跳ねさせた千歳は、緩く首を捻って視線を向ける。
そこには見慣れたツインテールが風に揺れていて。
対してミユキの視界に入った兄の右目には、見慣れない純白の眼帯がはめられている。
それだけで心を鷲掴みにされたような感覚に陥ったミユキは、俯いて唇を噛んだ。


「・・・ミユキ?」


戸惑いと驚きが滲み出た問いかけを受けたミユキは、抱きついていた腕に一層力を込めて。
違和感を覚えた千歳は少し首を傾げてもう一度問いかけた。


「どぎゃんしたとね?」


今度は心配が含まれた声に、ミユキは軽く俯けていた顔を上げてようやくその口を開いた。


「・・・兄ちゃん、辛かね?」

「・・・っ?」


予想外の問いかけに眼を見開くが、直ぐに困ったように微笑んで頭を撫でる。
その手つきは優しく、まるで壊れ物でも扱うかのように繰り返し撫でながら、静かに口を開いた。


「そぎゃんこつなかよ。・・・心配せんでもよか」

「・・・嘘たい」


この人はいつだって、絶対に弱みを見せない。
最も気を許せるはずの家族ですら。
いや彼の場合、家族だからこそなのかもしれないが。

ミユキはそれが歯がゆくてならなかった。
兄の涙など、過去に一度たりとも見た事はない。
いつだって泣いて頼るのは自分で、どんな時でも優しく頭を撫でて慰めてくれるのは兄だった。

だからこそ、その兄が弱っている時くらいは力になりたかった。


なのに。


「・・・兄ちゃんは、何で弱みば見せんと?」

「ミユキ・・・」

「ウチは・・・そぎゃん頼りにならんと・・・?」


自然に力が入っていたのか、ミユキの手はいつの間にか強く兄の服を握り締めていて。
それに気がついたのは、そっとその手に大きな手が重ねられた時だった。


「頼りばなっとうよ。・・・ミユキは俺ん支えたい」

「ばってん、兄ちゃんが泣いとうとこ見たこつなかよ!!」


視力を失って。
テニスを失って。
それでもこの人は一度たりとも涙を流す事無く、怒りを顕にする事も無く、優しく微笑むだけだった。

だからこそミユキは怖いのだ。
こんな様子では、いつか兄が壊れてしまうのではないかと思えて。


「無理せんで欲しか・・・。ウチに心配させたくなかなら、そぎゃん笑顔は逆効果っちゃ」


大きく見開く兄の眼は、左側しか見る事は出来ない。
白い眼帯に覆われたその右目がどんな表情を作っているのか、自分では到底窺い知る事は出来なかった。
やがて千歳は、その微笑みに僅かな苦笑を浮かべて俯く。


「ほんなこつ・・・ミユキには適わんたい」

「兄ちゃん?」

「・・・そやね。確かに・・・心底大丈夫って訳じゃなかよ」


兄の背中に抱きついているミユキからは、俯かれたその顔を窺うことは出来ない。
だが小さく呟かれたその言葉にはなんとも言えない感情が織り交ぜられていて、ミユキはただ唇を噛んだ。


「ばってん、眼ば見えんくなったこつも、テニスんこつも、そこまで悩んどう訳やなかよ。・・・それは、信じて欲しか」

「・・・うん」

「ただ・・・」

「ただ・・・?」


不自然に途切れた言葉をそのまま鸚鵡返しで尋ねると、俯かれていた兄の顔が上げられ、此方を見た。
その顔に、ミユキは小さく息を呑む。
寂しそうな、苦しそうな色が綯い交ぜになっている微笑み。
見ようによっては・・・泣き顔にすら見紛う程の。


「ただ・・・少しだけ・・・寂しかね」


そう呟いて、更に深くなる微笑み。
それを見て、幼いミユキはようやく気付いた。

あぁ・・・兄はきっと。



きっと・・・泣けないんだ。



自分が生まれるよりも前から、どんな時でも微笑んでいた兄だから。

いつの間にか、泣き方を忘れてしまったんだ。

だとすれば恐らく。

この、ようやく搾り出した本音が、兄にとっては涙と同等の物なのだろう。


「心ん中の大事な部分に・・・ふとか穴ば開いとうごたる」

「兄ちゃん・・・」


兄にとって、テニスがどれほど大きな存在であったか。

兄にとって、親友の存在がどれほど大きなものであったか。

幼いながらも、ミユキは理解しているつもりだった。


「・・・まだ、まだ諦めたらいけん」

「・・・ミユキ?」

「兄ちゃんは、ミユキの自慢たい」

「自慢??」

「兄ちゃんは九州が誇る、たいぎゃ強かテニスプレイヤーたい」

「ミユキ・・・」


家では呆れる程ゆったりとしている兄が、一度ラケットを手にすれば見違えるほどに華麗なプレイ姿を見せる。
その実力は何も知らないミユキですら圧倒されるもので。
同じように自分もテニスを始めて、そんな兄に教えてもらうようになって。
その力量は更に身をもって知る事になった。
こんな所で潰してしまって良い筈が無い

・・・だからこそ、もう一度。


「もう一回、あん場所に立つっちゃ!」

「・・・っ!?」


決して容易な事では無い。
そんな事は分かっている。
だが、ミユキはその口を止める気は無かった。


「眼もテニスも、まだ諦めるんは早かよ!」


暫く眼を見開いていた千歳であったが、ようやくそれを優しく細めた。
それは少なくともミユキには、取り繕ったような微笑みではなく。
本当に、心からの優しい微笑みに見えた。


「奇遇・・・やね」

「え?」


唐突に呟かれた言葉はミユキに理解する事は適わず。
しかし、抱きついていたミユキの腕をそっと解き、向かい合うように座った兄は言葉を続けた。


「俺も、同じこつ考えとったとよ。・・・まだ、諦めたくなかって。・・・ばってん、迷いもあったばい」

「兄ちゃん・・・」

「こぎゃん眼じゃ・・・なんともならんち思うとったと」


右手で眼帯を抑えるようにして呟かれた言葉は、ミユキの心に微かな陰を落とす。
しかし続けられた兄の言葉に、ミユキは再びその顔を上げた。


「ばってん、ミユキん言葉で眼が覚めたばい」

「え?」

「テニスだけやなか。・・・こん眼も、まだ諦めるんば早かね」


そう言って微笑んだ兄の顔は、いつもの明るいそれで。
ようやくミユキの顔にも、自然な笑顔が浮かぶ。
と同時に撫でられた頭は、いつもの優しい手つきで。


「絶対治して、もう一回コートに立っちゃるばい。・・・やけん、見届けてくれんね?」


いつも優しい微笑みを浮かべている兄だが、コートに立てばそれは一変して不敵なものへと変貌する。
今兄が浮かべているのはそれに近いもので。
いつも束縛を嫌い、何事にも無頓着な兄であるが、一度火が付けばそれは留まる所を知らない。
将棋しかり、テニスしかり。

だからこそミユキは確信を持った。
兄なら必ず、もう一度あの場所に立てると。


「当たり前っちゃ。張り付いてでも見届けるけんね」

「心強かね。・・・ほんなこつありがとうね、ミユキ」


その言葉は、ミユキの心を救い上げてくれるような気さえした。

少しでも、兄ちゃんの助けになれた?
いつも支えてくれる兄ちゃんに、少しでもウチは返せた?

陰の消えた暖かい微笑みが、その答えになるのかもしれない。


一年後、ミユキは単身東京へと向かう。
その目的はただ一つ。


大阪代表として全国へと挑む兄を、その眼で見届ける為に。











 

bottom of page