第七幕
「記憶が退行・・・・?」
今しがた到着した桂は、開口一番に高杉から聞かされた事実に眼を見開いた。
隣の部屋で眠っている銀色の状態は想像以上に悪いようで、開いた瞳を直ぐに思慮深げに細めた。
「軽く説明はしておいたがな」
「しかし混乱はしていただろう」
「いや」
「・・・?」
想像していなかった否定の言葉に、桂は眉を顰めて高杉を見る。
しかし当の高杉はただ煙管を吹かし、窓の外に無感情な眼を向けていた。
「理解してんのかどうかは知らねぇが、納得はしていやがった」
「・・・成る程な。あの時の銀時そのままか」
「あぁ。・・・俺達意外にはなんの興味もねぇ。・・・自分自身の事なら尚更な」
窓の外に向けていた瞳を、白い襖に向ける。
桂もつられるようにそちらに眼を向けてから、直ぐに哀しげに俯いた。
「退行した事が最善であったのか・・・なんにせよ、もしそれを銀時が望んだのなら、俺達に出来ることは一つだけだ」
視線が向けられていた襖が、まるでタイミングを読んだかのように開かれる。
驚いて息を呑むが、顔を出した人物は予想に反した人物であった。
「久しぶりにおうたが、寝顔は相変わらずじゃの~」
顔をニヤケさせながら後ろ手に襖を閉めたのは、もじゃもじゃ頭にグラサンをかけた男。
「起こさなかったろうな?」
「当たり前ぜよ。で、難しい話しよったがか?」
どさりと音を立てながら腰を下ろすと、一瞬でその眼を真剣な色へと変える。
高杉は煙管の灰を落とすと、襟元にそれを片付けた。
「難しくなんかねぇ。簡単な話だ」
「・・・確かにな」
「?」
どういう意味だと首を傾げる辰馬に、二人はその口元に笑みを乗せて答えた。
「昔に戻るだけだ」
「アイツがそれを望むんならなァ」
昔。
四人が揃い、まるで奪い合うように銀時に寄り添っていた日々。
それは戦火に包まれながらも確かに幸せで、同時にその中央に居た銀色が一番不安定であった時期でもある。
しかし今は、その戦火が無い。
変わりにあるのは・・・
「それで高杉。例の事件の事だが・・・」
「・・・あぁ」
三人は再びその顔を暗く俯かせる。
確かに今、あの地獄のような戦は終った。
しかし、今銀時の置かれている状況は、ある種それよりも地獄といっても過言ではない。
「あいつらは血眼になって銀時を探していやがる」
「・・・なんで、金時が不利になるようなマネするがか・・・?あいつは金時が大好きだった筈じゃきに」
「さぁな。そんなもんは本人に聞け」
「聞けるのはお前だけだろう。・・・俺達では目前に立っただけで斬り殺される」
深く溜息をつく桂を軽く睨んでから、高杉はその目を再び窓の外へと向けた。
「・・・実際に斬られたのは、俺の方だろうが」
「斬られて生きちょったんなら、儲けもんじゃあ」
「今此処で斬り殺されてぇのかてめぇは」
「なんにせよ、あの男の真意など考えても無駄なことは分かっている」
再び大きな溜息をついて二人の会話を止めた桂は、話を強引に元に戻した。
「大事なのは、今真撰組に・・・アイツに銀時が見つかる事だけは避けねばならんという事だ」
「まぁな。・・・今会わせりゃ、今度こそぶっ壊れるぜぇ・・・?」
「そげなら良い考えがあるきに!!」
手をポンと叩いて声を上げた辰馬に、二人は何だと視線を向けた。
人差し指をびしりと立てた辰馬は、口元を愉快気に笑わせながらも、グラサンの奥の瞳はニヤリと細めた。
「ワシの船に乗せるがいいきに。コレであっという間に国外脱出じゃあ」
「なら俺の船でも良いだろうが」
「幕府に追い回されとるおまんの船じゃあ、見つけてくださいゆうとるようなもんじゃ」
「・・・確かに、名案と言えばそうか。坂本なら俺達との関係性もまだ漏れてはいない」
「わしも仕事しながら金時の傍におれるきに。おまんらなら大歓迎じゃあ」
この場所もいずれ嗅ぎつかれる。
いずれ銀時があの男とはち合わせる時は必ず来る。
しかし、今はまだ。
「ならば、頼めるか」
「お安い御用じゃあ。早速陸奥に頼んでくるきに、金時は任せるぜよ」
ひょこひょこと浮かれ足で部屋を出て行く辰馬を見送って、二人は銀時のいる部屋へと眼を向けた。
「・・・あの馬鹿の船が、地獄絵図にならなきゃいいがな」
「ならんだろう。あの男が何を考えているのかは知らんが、何か理由があるはずだ。・・・恐らく狗に対して、な」
「そうだといいがなァ」
鼻で笑ってから、高杉は立ち上がって銀時の部屋の前へと立つ。
銀時を起こそうと襖を軽く開いたとき、中に居る人物を見て高杉は咄嗟に腰の刀に手をかけた。
「・・・!?」
大きく眼を見開いて生唾を飲み込んだ高杉を見て、何事かと桂が襖の向こうに眼を向ける。
・・・・そこには。
「・・・!貴様は・・・!」
直ぐに立ち上がり、同じように桂も刀に手をかける。
二人の視線の先。
銀時が眠っていた筈の布団の上。
そこには、一人の人間が立っていた。
「・・・・」
月光を受けて光る神々しいまでの銀髪。
月に溶け込むかのように透き通る白い肌。
それは確かに彼等のよく知る坂田銀時だ。
しかし、明らかに異常なものがある。
愉快気に細められた紅い瞳と、ニヤリと歪められた口。
そして、触れたものを切り刻む程強烈な、殺気。
それは銀時であって銀時じゃない。
明らかに異質で、しかし彼等にとっては骨の髄まで記憶させられたその存在が、今目の前に立っていた。
今、目前に立つこの銀色の存在。
圧倒的な威圧感と、凄絶なまでの妖艶さに二人は思わず息を呑む。
この存在が、自分達の知る銀時で無い事は明らかであり、ならばそれが誰であるのかも理解しているはずであった。
しかし、何度見ても。
一向に口を開こうとしない二人に、銀色は一度口角を更に引き上げてニタリと笑うと、その口から声を発した。
「随分と、久しぶりだな。・・・・晋助」
その声音は確かに銀時の物。
見慣れた紅い瞳は真っ直ぐに高杉を射抜き、一瞬たりとも逸らされることは無い。
直接名を呼ばれた高杉は目を見開き、直ぐに無理矢理にでもその口元に笑みを乗せる。
「あぁ。・・・あの時ぶりか」
高杉は答えながら刀の柄を握る手に、更に力を込める。
やはり。
この存在は高杉にしか興味を示さない。
それ以外は全て、この者にとっては野に立つ木よりもどうでもいい事なのだ。
桂は静かに息を殺し、しかしいかなる場合にも対応出来るよう神経を研ぎ澄ました。
「丁度良い・・・おめぇには聞かなきゃならねぇ事が山程あらァ」
高杉は銀色から一切目を離さず、尚も続ける。
「一体どういうつもりだ?おめぇは何がしてェ」
はっきりとした声音で問いかけるも、返されるのはニタリとした表情と沈黙。
あっさりと答えるとは思って居なかったが、気が長い方ではない高杉はすぐに脳内をイラつかせる。
それでもグッと堪えて返答を待つと、予想外にも銀色は歩を進めてきた。
咄嗟に身構えるが、その足取りはまるで地に足が着いていないのではと言う程静かで、ゆっくりと近づいてくる。
やがて高杉の目の前まで辿りつくと、白く細い指で高杉の左目を覆う眼帯を優しくなぞった。
「・・・この左眼には・・・何が映ってる・・・?」
「っ・・・さぁな・・・・質問に答えろ」
「俺の眼には、たった一つしか映ってない」
高杉は、確かにこの”存在”と相対したことはある。
銀時の身体を持った、銀時では無い別の何か。
その過去の記憶と比較して、高杉は疑問符を脳内に浮かべた。
ここまで酷く、キレた野郎だったか・・・?
「瞼の裏から・・・俺を駆り立てる」
「それが一連の殺人の理由かァ?」
高杉の言葉に銀色はぴくりと包帯をなぞっていた指を止め、その腕を下ろす。
しかしその顔には変わらない口角を上げた微笑。
「そうだよ・・・銀時が笑ってくれるように・・・また俺を見てくれるように」
「おめぇ・・・」
眼を見開いて目の前の銀色を見る。
表情筋が全く動かない、この張り付いたような笑み。
不気味にも関わらず、どこか怪しい美しさを放っているそれは、なお一層深く笑みの形を刻んだ。
「銀時は・・・俺の元へ帰る。・・・帰って、幸せそうに笑うんだ」
真っ直ぐに自分を貫いていた筈の瞳は、いつの間にか宙を凝視している。
まるで、その眼には望みの人物が映っているかのように。
「誰も見えない、誰も触れない、誰も傷つけない、俺だけの場所に」
そこで張り付いたような笑顔が、一瞬にしてふと優しいものに変わった。
どことなく銀時が見せるような笑顔に、限りなく近い微笑み。
それに驚いて高杉が息を詰めると、下げられた腕が再び上げられ、高杉の頬をなぞり口を開いた。
「晋助・・・お前だけは、銀時に触れることを許してやる」
「そいつは痛み入る申し出だが・・・その真意は何だ」
「俺は銀時を取り戻す」
「!?」
気付けば、終始笑みを乗せていた顔が、一瞬にして真顔へと変貌していた。
動揺して瞳を揺るがせたとき、追い討ちをかけるように銀色の言葉が耳に入った。
「銀時の為だけに生まれた俺だ。俺だけの銀時を取り戻す権利がある」
再び刻まれた銀色の浮かべる笑顔は、その紅い瞳に誰も映すことの無い虚ろな微笑み。
銀色はゆっくりと自らの胸に左手を添えて、小さく呟いた。
「その為なら、俺はいくらでも牙を剥いてやる。・・・例えそれが銀時を壊す事になろうとも」
「そいつはぶっ飛んだ考えじゃねぇか・・・だからあの狗の性格を利用したって訳かァ?」
「俺は銀時と同じ目線でイヤって程見せ付けられたんだ・・・躍らせる事くらい簡単だ」
ニタリと笑うその表情には、高杉の知る銀時の面影は微塵も見受けられない。
狂喜が滲み出るその表情に高杉がゴクリと生唾を飲み込むと、銀色は静かに唇を高杉の耳元に近づけ囁いた。
「・・・どうして俺が、毎夜のように表に出ていられるか・・・分かるか・・・?」
「!?」
「銀時の心が綻びかけていた。・・・今となっては隙間だらけだ。・・・もう直ぐ時は来る」
「なんだと・・・!?」
顔色を変えて銀色の肩を掴もうとするが、寸前で避けられるように身体を離されたことでそれは叶わなかった。
代わりに向けられたのは、まるで勝ち誇ったかのような微笑み。
「後悔したくないなら、その残った片目に焼き付けておけ」
「おい!」
高杉が問いただそうと身を踏み出した時、不意に白い体が大きく傾き倒れこんだ。
咄嗟に手を差し伸べて支えると、辛うじて床への直撃を免れた”銀時”は静かに高杉の腕の中で寝息を立てていた。
先程まで放たれていた異様な殺気と圧迫感が完全に消失したのを確認して、ようやく桂は大きく息を吐いた。
「消えたか」
「・・・あぁ」
いつもの銀時の寝顔を確認してから、ゆっくりと布団に寝かせる。
規則正しく寝息を立てる銀時の髪の毛をゆっくりと撫でて、高杉は考え込むかのように眉根を寄せた。
「先に壊れてたのは、おめぇの方だったって事か」
高杉が見つめるのは、銀時の中の更に向こうに眠る存在。
身体を持たぬ、個として自立した感情を持つ者。
名前すら持たぬそれはただ、唯一の存在意義である筈の銀時の記憶から消され、更に他人にその銀時を奪われる光景を目の当たりにし続けた。
元々不安定だったその感情が、崩壊を向かえたのは当然の事だったのだろう。
銀時を愛しすぎるが故に空回った異常な行為。
それがあの一連の事件の理由だとするならば、止める事は困難を極める。
しかし、あの存在が銀時の身体を掌握しつつあるとするならば、そうも言ってはいられない。
何故なら。
「ヅラ、時間がねぇ。早く奴を止めねぇと、銀時が消える事になるぜェ」
「ヅラじゃない、桂だ。・・・それで、どういう意味だ?」
「さっき言ってたろうが。”誰も見えない、誰も触れない、誰も傷つけない、俺だけの場所に取り戻す”ってなァ」
銀時を見つめていた瞳を上げて、今だ訳が分からぬと眉根を寄せる桂に向ける。
ゆっくりと立ち上がった高杉は、桂の横を通り過ぎてから一度立ち止まり、眼だけを桂に向けて口を開いた。
「分かんねぇか?・・・奴は自分が表に出て、銀時を精神の中に閉じ込めやがる気だぜ」
「・・・っそれは・・・!?」
眼を見開く桂を置いて、高杉は部屋を後にした。
一向に導き出されない、”二人”を救う方法を必死に脳内で巡らせながら。